同じ出来事をどう受け止めるか?

先週末は、キャリアコンサルタント養成講座の修了試験。

講座としての修了試験なので、合否が…というよりは、今までのことを振り返ってとにかく体現してみることを大切にする時間です。

もう既に資格を取得された方に相談者役としてお手伝いしてもらいながら、実際の相談を想定したロールプレイを一人ずつ、15分やっては私がフィードバックして、を繰り返します。

2日に分けて、それぞれ違う方が相談者役をしてくれる中、受講生の方は、緊張しつつも今までの練習を踏まえ、一生懸命相談者の悩みを聴いていきます。

 

修了試験の日は、私もどうなるかといつも心配するのですが、

熱心な方が多いクラスだったので、思った以上に皆さん落ち着いてお話を聴くことができていました。

 

その1日目と2日目の終わりに、それぞれの相談者役の方から感想をもらったのですが、その内容が、

 

1日目の方は「自分の時はこんなに落ち着いてできなかった。すごい!がんばって下さい!」と、

過去の自分の気持ちになって、励ます言葉。

 

そして2日目の方は「実は私、試験でA評価でした。皆さんもぜひがんばって下さい」と、

自分ががんばった結果をもとに、先輩としてのエールの言葉。

 

同じ「がんばって」でも、違う角度からの感想だったのです。

 

目の前の相手をどう捉えるか。

その人の気持ちになって考えるか、先輩として励ますか、

人によって全然違うんだ、と言うことを改めて実感。

 

いろんな人の話を聴くためには、いつもの「気が合う」仲間だけでなく、

価値観や見方の違う人と接し、考え方や感じ方を伝え合って、

人の多様性を日々実感しながら、幅を広げ続けたいなと思う出来事でした。

 


「孫がいてもいい年」になった自分

梅雨の合間、近くの国府宮神社にお参りに。

 

この神社は「はだか祭」で有名ですが、去年はもちろん中止。

ふんどし姿の大勢の男性たちがもみくちゃになって、選ばれた「神男」に触ろうとする、「密」しかないお祭りですから、仕方ありません。

代わりに今までの「神男」OB達で、神事をやっていました。

 

境内にはパラパラとお参りする人がいたのですが、

中に一組、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた「初参り」のご家族が。

見ると、2歳くらいのお兄ちゃんが、主役が変わったのを知ってか知らずか、お母さんにまとわりついています。

 

ほほえましく、境内で写真を撮っている様子を見ていると、

赤ちゃんのお母さんの父親らしき方が、それはそれは嬉しそう。

 

その姿をみていて、ふと、

私だって「孫がいてもいい年」だ、ということにハタと気づき(^^;)

 

長男は25才。

夫がその年に結婚したんだっけ!っと、今さらながら、結婚が早かったことを実感しました。

 

まあ、息子たちに気配はなく、ただ自分が年を取ったことだけ(…)を自覚する機会となりました。

 

 

 

 

あじさいも、菖蒲(かな?)も、

梅雨時期は色が映えますね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「不要不急」だと言われるものがくれた、大切な時間

きのうは金曜ロードショーで、久しぶりに「ボヘミアン・ラプソディ」を見ました。

映画館で公開されたのは、2018年11月。

 

映画の中で使われている曲も、クライマックスのライブエイドの感動ももちろんですが、

映画の中で描かれたフレディ・マーキュリーの孤独と苦悩が、深く心を揺さぶられる映画です。

 

2年半前に映画館で見た後の、興奮冷めやらぬブログはこちら→https://each-one.info/learn-a-life-lesson/

 

あれから世の中色々ありました。

 

去年からコロナが広がり、マスクなしでは人と一緒に過ごせなくなり、

感染を理由に、映画や音楽など、不要不急にあたると言われる「娯楽」のジャンルは、閉鎖・中止・縮小と、

やってはいても、気軽に見に行けない状況が続いています。

 

でも、私にとってこのジャンルはとても大切で、ここを減らしてどのように自分の中のバランスをとっていくか、

日々探りながら進んできたような気がします。

 

「不要不急」?

 

できないことも多い中、どうにもできない現状に、それを気にしないよう敢えて心を動かさないようにする日々。

でもそんな中で、このジャンルこそ、心を深く動かし、温かい思いがをくれます。

何か満ち足りた気持ちが先へ進む力となり、あたりまえの日常も大切に思うことができる、

そんな役割があると思っています。

 

なのに「不要不急」と。

 

何かにいきづまった時、映画を一人で見る時間。

気軽に味わえたあの瞬間を、「ボヘミアン・ラプソディ」を見ながら、懐かしく感じました。

 


たかがメガネ、されどメガネ

子供のころから視力が良くて、左右とも1.5、落ちても1.0くらいの私。

眼科には寄り付かず、目薬を差すのも好きじゃない。

ところが、何となく目を動かすと調子が悪く、ついでに視力も測ってもらおうと、久しぶりに6年前に1度いったことのある病院へ、重い腰を上げて行ってきました。

 

ちょっと変わった感じの先生なのですが、余計な検査はしない良心的な面があって、簡単な検査でできることをと、検査と診察室を3回も行ったり来たり。

結果、結膜炎に目薬を差しつつ、違和感が残ったら再診、ということになりました。

そしてついではありましたが、測ってもらった視力検査では、左は近視、右は老眼(^^;)

だから、両目で見ると、遠くも近くもうまく合わない訳です。

 

でも先生いわく「便利な目だ」と。

「片目ずつならそれぞれよく見えるし、両目でも何とか大丈夫な範囲だし」と。

そういう考えもあるんだ…。

私はそれを、全然便利だとは思っておらず、「遠くも近くもうまく見えない!」とモヤモヤしてました。

捉え方によってこんなに違うのかと、目から鱗です。

 

そして説明してもらう中で、「年齢の割に、すごくよく見えているよ」と言われ、何かちょっとうれしくなったりもして。

 

裸眼生活が長い私。

なぜかメガネをかけるのは「負け」といった気持ちがわいてきます。

なぜ?いったい私は何と戦っているんだ?

 

結局、メガネがなくても何とかなる範囲だけど、

「夜に車を運転する時用」と「近くの本を読む時用」と2つのメガネを使い分ければ両方よく見えるということ。

 

近視用だけか?老眼鏡だけか?それとも両方か?

 

たかがメガネ、されどメガネ

「メガネをかける=負け」と思えても代えがたいくらい、私にとってその2つのシーンは大切なのか?

あらためて立ち止まってしまいました。

 

処方箋はいただいたので、しばらく迷って決めたいと思います。

 


はらぺこあおむし

「はらぺこあおむし」の絵本で有名なエリック・カールさんが亡くなりました。

我が家にもまだ「はらぺこあおむし」あります。

もうかれこれ20年くらい前、子ども達が小さい頃は、寝る前に絵本を毎日読んでました。

子どもが本好きになれば…と読み聞かせをしている方は多いでしょうが、

私の場合、私が読みたかった(*^_^*)

 

年子の男の子2人。

毎日、本当にあっという間に一日が過ぎて、自分の時間なんて全然ない。

せめて寝る前になんとか時間を作って、子ども達に読みながらも、

自分が絵本を楽しんでいたのです。

 

そこで近所の図書館に通いつめ、大きな手提げにギュウギュウ詰めに絵本を借りては、

2週間経ったら交換するかのようにまた借りに行く、そんな生活をしていました。

そんな中、やっぱり何度も読みたいと思った絵本は買ってきて、

本当に、何度も何度も読みました。

 

子供が大きくなってから、小さな子供さんのいる方へ絵本もあげてしまったのですが、

さすがにどうしても手放せない本たちは、今も我が家の本棚に。

 

 

 

 

 

 

 

「はらぺこあおむし」なんかは、穴に指をつっこんで、ページをいったりきたり。

ページの折れた本を開くと、そんな時間がよみがえります。

 

 

 

 

 

 

 

今も思い出す、私の大切な時間です。

 

エリック・カールさん、楽しい絵本をありがとう!

 


本への「書き込み主」に、思いを馳せる

先日、既に絶版になった本が欲しくて、中古の本をAmazonで購入。

やっと手元に届いたのでパラパラと見ていたら、「書き込みなし」とあった本を選んだのに、鉛筆で書き込みが!

薄く書かれていたので、見逃されていたようで(^^;)

読むと、自分の経験を振り返るワークの所に、

「バイトでひどく叱られました」とか

「グループワークがうまくいきません」とか

所々書き込んであります。

カウンセリングのワークブックとして、大学で心理学を学ぶ学生さんの教科書としても使われていた本だと聞いていたし、きっとこれを書いたのは学生さん。

所々しか書いてない様子から、先生から課題として取り組むように言われたところへ記入した感じ。

 

そもそもこの学生さんは、どうしてこの本を手放したのか?

書き込んだことは忘れてしまったのか。

「書いてあるけど、まあいいか」と思える内容だったのか。

もう心理学やカウンセラーからは離れてしまったのか。

それとも、この本を糧に力をつけて、今ではより専門的なレベルに達しているのか。

思いは膨らみます。

 

ついつい、他のページはどんなことが書いてあるか見てみると、

自分の感情を振りかえるワークでは「親からグチを言われて口論になりました」と。

「賛同したほうが親の気分が楽になるのですが、きいているのも苦痛ですし、自分のグチはきいてくれないのがなんか腑に落ちないので、葛藤しています」と。

 

この学生さんの気持ちを思うと、会ったことのない私も身につまされます。

それに、丁寧に自分の気持ちを振り返っていることに感心してしまいます。

こうやって自分を丁寧に振り返って、学びを深めていったんだな、と思うと、

会ったこともないこの学生さんが、何となく同志のように思えてきました。

 

この学生さんが、丁寧に自分を振り返って書き込んだことにも思いを馳せながら、

私はどう思うか振り返って、一緒に学んでいきたいと思います。

 


母の日に思う

5月9日は母の日

 

 

 

 

 

 

今年就職した息子から、ルピシアのお茶セットをもらいました!

自分で働いたお金で買ってくれたかと思うと、感慨ひとしお (T_T)

 

そして私は、実家の母にバラのブリザーブドフラワーを

今までは鉢植えのカーネーションを贈っていたのですが、実家が道路の拡張でコンパクトに改築したので、今年は内容変更。

こうして贈ったり贈られたりすると、あらためて

贈るのはモノじゃなくて、相手を思う気持ちなんだと実感しました。

 

息子は今、在宅でリモート研修を受けていて、

私が家で、結構紅茶を飲んでいることを見るようになって選んでくれたんだと思うし、

私も、母が今までは花の手入れを楽しみにしていたので鉢植えで贈っていたけれど、

今年は家がコンパクトになって大きい鉢は置けないだろうし、まだ片付けが終わり切らないことを聞いていたので、手間のかからないものをと考えて選びました。

 

結局、何を贈ろうか考える時間は、相手のことを思いやる時間だったことを、

改めて実感する機会になりました。

 

母の日ありがとう!

 


判断が合ってるかどうかなんて、結局は分からないもの

今年もゴールデンウイークは自粛。

なかなかどこかへ出かけるという感じでもないので、部屋の片づけをし始め、増えてきた書類やら本やら、どこかに入るところはないかと探していました。

すると、リビングの棚にずっとしまったままだった子供たちの図鑑を発見。

もう今となっては見ることもないので、これを処分してスペースを空けようと思い立ちました。

その中には、小学館の図鑑NEO

当時新しく発売されたシリーズで、子ども向けではあったのですが、とてもきれいな図鑑だったので私も欲しくなって、せっせと買いそろえたものでした。

いざ数えてみると14冊も!

その他の図鑑っぽい本と合わせると結構な数で、捨てるのも忍びない。

ちょっとインターネットの買い取りサイトで見積もりをしてみたのですが、古いバージョンだし、大した額にならないので、手間を考えて直接ブックオフに持ち込んでみました。

いざ査定!

すると、カバーのついていた2冊は、まあまあの値段(250円とか)がついたのですが、カバーなしのものは10円…。

カバーって大事だったんだ~(>_<)

子ども達が図鑑を出し入れする時、ガサゴソと邪魔そうだったので、見やすいようにと敢えて私が外したのです(そして捨てた…)

その当時は、子どもたちが使うのにいいと思ってやったことが、結局15年以上たって「あ~」ということに。

思いもしない後悔の気持ちが。

結局、その時はいいと思っていても、状況が変わったり時間が経ったりすると、後悔することもあるよな~

 

なんで捨てちゃったんだろう…

金額のことよりも、自分がやったことを振り返っての残念な気持ち。

あの時はいいと思ったんだし、と納得させてみたり、

捨てるよりはいいし、と思い返してみたり、

ものを手放すことで、いろんな思いがよぎりました。

 

まあ悪い気持ちばかりではなく、その当時の息子たちの様子を懐かしく思い出すことができたので、

良しとしたいと思います (^^;)

 


「誰が言うか」の大切さと、その時の温かい気持ち

前回のブログで「食わず嫌いのカキを食べた話」を思い出した時、

一緒に思い出したのは、「食べてみろよ」といった先輩のMさんのこと。

懐かしい…

何度も「食べてみたら」「おいしいよ」と言われても、食べなかったのに、

その時私がカキを口にしたのは、Mさんが言ったから。

 

Mさんは同じ部署の先輩で、出身地(山梨)や大学が同じだったこともあり、私のことを子分のようにかわいがってくれました。

今でも印象に残っているのは、まだ大した仕事もできない私に、450人ほどの講師データベースを作る作業を教えてくれたこと。

まだ事務所内に、オフコン(オフィスコンピューター)が1台しかなく、人数分ノートパソコンが導入されることになったのに、何に使っていいのか分からない…といった時代でした。

そんな中、新しくきたパソコンで新しい作業を教えてくれ、できるようになるまでサポートもしながら任せてくれた。

事務所の誰にもできない作業を、私ができると信じて、任せてくれた。

その思いの積み重ねをMさんから感じていたからこそ、私もMさんの言葉を信じたのだと、今でも思います。

結局、他の人が言っても、20数年食べていなかった食わず嫌いを、私は食べることはなかった。

何を言うかももちろん大切だけれど、誰が言うかはもっと大切。

そこに、相手を信じてかかわる関係があってこそ。

そんなことも、あらためて、温かい思い出と共に思い出すことができました。

 

Mさんは、私が会社を辞めて結婚し、長男が生まれた半年後に、病気で亡くなって

( ;∀;)

久しぶりに思い出したから、きっと「おっ、久しぶりだな!」って言ってます(笑)

 


「食わず嫌い」を食べた時の話

自分のこころの内面を振り返るワークでの1コマ

「印象に残っている食べ物」というテーマで、私が思い出したのが、

25年以上前に食べた「カキ料理」

実は、社会人になるまでカキを全く口にせず「食わず嫌い」だった私が、初めてカキを食べた、その料理でした。

 

それは大学を卒業して入った会社で2年経った頃、会社近くの中華料理屋さんでのワンシーン。

立食形式で大勢でランチ。

いったい何の集まりだったかなんて、すっかり忘れてしまいましたが、

「ずっとカキが嫌いで食べたことがないから!」と言い張る小生意気な私に、

「おいしいから食べてみろよ」と先輩社員が。

その方は私より20歳くらい上、出身(山梨)も大学も同じで、私を子分のようにかわいがってくれた方でした。

その先輩の後押しだったので、しぶしぶ口に…

思い切って食べたそのカキ

 

うわっ、おいし~!

 

フリッター状のカキと野菜(ナスだったかな?)をオイスターソースで炒めた料理。

料理の名前は覚えてないけど、そのおいしさや味は、今でもはっきりと覚えています。

「カキが食べれた」「食べてみたらおいしかった」という単純な出来事なのに、もう25年以上経った今でも、まるで昨日のことのように思い出したのはどうしてか?

 

たかがカキ、生きていく上で、食べなくても別に困らない。

だけど、思い切って食べた瞬間の「えいっ」という思い、

そして、思い切って食べてみた自分のがんばりをちょっと誇らしく思う気持ち、

「意外と食べれた」と、できないと思っていたことへのハードルがぐっと下がった感覚。

もっと幼い頃に自然に食べていたらそこまで感じることはなく、長い間食べていなかったからこそ、

ずーっとできないと思っていたことだって、やればできる!と知った瞬間でした。

 

こんなに時間がたっても、ありありと思い出したあの時の様子。

そして、あの時の経験が、

その後ハードルを感じた時に、私が進む力になっていたことに、

思い出した「今」気づきました。

 

こうやって、人は経験を重ねる中で自分らしさも共に育っていくんだ、と今更ながら実感して、

そんな私も悪くない…と、新たに自分を見直しました (^^)