「何とかなる」と思えるのは

財布を忘れて出かけてしまいました…これで2回目…(>_<)

最寄り駅の駐車場は現金精算なのです。

以前忘れたときは、結局電子マネーでバスに乗って帰宅し、夜、夫に頼み込んで駐車場まで送ってもらい出庫。

この何とかなった経験が「結局、何とかなるんじゃない?」と私を甘やかすのです。

今回も、何とか全てを電子マネーで乗り切り、あまり良くない成功体験を積んでしまったようで…。

 

いったい、この「何とかなる」っていう私の思いはどこから来るんだろう…?

 

最初に思い出したのは、大学4年生の頃、親友と3人で青春18きっぷとレンタカーを使って北海道一周した時のこと。

予定があって友人達と別れ、一足早く一人で帰宅する途中、大雨で電車が遅れて乗り継ぎできずに、岩手の駅で一夜を明かすことになった日のことでした。

乗客と駅員とがトラブルになって揉めている上、人気の少ない真夜中の駅構内で一夜を明かすことになって不安に…。

そんな中、青森から東京へ向かっていた同世代の女性と一緒になり、近くにいた男性の方から調達した食べ物を分けてもらい、語り明かして翌朝を待つことができました。

その時声をかけて下さった男性の方の温かさや、女性と一緒に語り合う中で感じた心強さが、不安な私を支えてくれ、30年以上経っても心に残っています。

 

また、初めて養成講座の講師を担当したクラスでのこと。

東京へ日帰りで毎週末、2カ月間通う中、台風で2回も足止めされて泊まることになり、声の調子を悪くして枯らしてしまい、自分としてはカツカツの状態でした。

でも最終日に、受講生の方々から温かい声をかけてもらい、無事全うできた安心感や温かい声への感謝の思いは、今でも私の支えになっています。

 

結局、一歩踏み出した時、想定外のことが起きてうまくいかなかった時に、他の方の支えや励ましに支えられて進む中で、私の中に育まれた思いなんだ、と実感します。

その積み重ねで今の私はできているし、この「何とかなる」という思いが、私をここまで連れてきてくれたのも確かです。

 

今月で、開業して8年目に入りました。

 

ここまで来られたのは、自分の力だけではありません。

周りの方々や環境の支えがあるからこそ、ここまで歩んでくることができました。

本当にありがとうございます。

支えに感謝しながら、まだ先へ進むことができる、「何とかなる」と信じて、

これからも歩み続けようと思います。

 


「不要不急」だと言われるものがくれた、大切な時間

きのうは金曜ロードショーで、久しぶりに「ボヘミアン・ラプソディ」を見ました。

映画館で公開されたのは、2018年11月。

 

映画の中で使われている曲も、クライマックスのライブエイドの感動ももちろんですが、

映画の中で描かれたフレディ・マーキュリーの孤独と苦悩が、深く心を揺さぶられる映画です。

 

2年半前に映画館で見た後の、興奮冷めやらぬブログはこちら→https://each-one.info/learn-a-life-lesson/

 

あれから世の中色々ありました。

 

去年からコロナが広がり、マスクなしでは人と一緒に過ごせなくなり、

感染を理由に、映画や音楽など、不要不急にあたると言われる「娯楽」のジャンルは、閉鎖・中止・縮小と、

やってはいても、気軽に見に行けない状況が続いています。

 

でも、私にとってこのジャンルはとても大切で、ここを減らしてどのように自分の中のバランスをとっていくか、

日々探りながら進んできたような気がします。

 

「不要不急」?

 

できないことも多い中、どうにもできない現状に、それを気にしないよう敢えて心を動かさないようにする日々。

でもそんな中で、このジャンルこそ、心を深く動かし、温かい思いがをくれます。

何か満ち足りた気持ちが先へ進む力となり、あたりまえの日常も大切に思うことができる、

そんな役割があると思っています。

 

なのに「不要不急」と。

 

何かにいきづまった時、映画を一人で見る時間。

気軽に味わえたあの瞬間を、「ボヘミアン・ラプソディ」を見ながら、懐かしく感じました。

 


「誰が言うか」の大切さと、その時の温かい気持ち

前回のブログで「食わず嫌いのカキを食べた話」を思い出した時、

一緒に思い出したのは、「食べてみろよ」といった先輩のMさんのこと。

懐かしい…

何度も「食べてみたら」「おいしいよ」と言われても、食べなかったのに、

その時私がカキを口にしたのは、Mさんが言ったから。

 

Mさんは同じ部署の先輩で、出身地(山梨)や大学が同じだったこともあり、私のことを子分のようにかわいがってくれました。

今でも印象に残っているのは、まだ大した仕事もできない私に、450人ほどの講師データベースを作る作業を教えてくれたこと。

まだ事務所内に、オフコン(オフィスコンピューター)が1台しかなく、人数分ノートパソコンが導入されることになったのに、何に使っていいのか分からない…といった時代でした。

そんな中、新しくきたパソコンで新しい作業を教えてくれ、できるようになるまでサポートもしながら任せてくれた。

事務所の誰にもできない作業を、私ができると信じて、任せてくれた。

その思いの積み重ねをMさんから感じていたからこそ、私もMさんの言葉を信じたのだと、今でも思います。

結局、他の人が言っても、20数年食べていなかった食わず嫌いを、私は食べることはなかった。

何を言うかももちろん大切だけれど、誰が言うかはもっと大切。

そこに、相手を信じてかかわる関係があってこそ。

そんなことも、あらためて、温かい思い出と共に思い出すことができました。

 

Mさんは、私が会社を辞めて結婚し、長男が生まれた半年後に、病気で亡くなって

( ;∀;)

久しぶりに思い出したから、きっと「おっ、久しぶりだな!」って言ってます(笑)

 


「食わず嫌い」を食べた時の話

自分のこころの内面を振り返るワークでの1コマ

「印象に残っている食べ物」というテーマで、私が思い出したのが、

25年以上前に食べた「カキ料理」

実は、社会人になるまでカキを全く口にせず「食わず嫌い」だった私が、初めてカキを食べた、その料理でした。

 

それは大学を卒業して入った会社で2年経った頃、会社近くの中華料理屋さんでのワンシーン。

立食形式で大勢でランチ。

いったい何の集まりだったかなんて、すっかり忘れてしまいましたが、

「ずっとカキが嫌いで食べたことがないから!」と言い張る小生意気な私に、

「おいしいから食べてみろよ」と先輩社員が。

その方は私より20歳くらい上、出身(山梨)も大学も同じで、私を子分のようにかわいがってくれた方でした。

その先輩の後押しだったので、しぶしぶ口に…

思い切って食べたそのカキ

 

うわっ、おいし~!

 

フリッター状のカキと野菜(ナスだったかな?)をオイスターソースで炒めた料理。

料理の名前は覚えてないけど、そのおいしさや味は、今でもはっきりと覚えています。

「カキが食べれた」「食べてみたらおいしかった」という単純な出来事なのに、もう25年以上経った今でも、まるで昨日のことのように思い出したのはどうしてか?

 

たかがカキ、生きていく上で、食べなくても別に困らない。

だけど、思い切って食べた瞬間の「えいっ」という思い、

そして、思い切って食べてみた自分のがんばりをちょっと誇らしく思う気持ち、

「意外と食べれた」と、できないと思っていたことへのハードルがぐっと下がった感覚。

もっと幼い頃に自然に食べていたらそこまで感じることはなく、長い間食べていなかったからこそ、

ずーっとできないと思っていたことだって、やればできる!と知った瞬間でした。

 

こんなに時間がたっても、ありありと思い出したあの時の様子。

そして、あの時の経験が、

その後ハードルを感じた時に、私が進む力になっていたことに、

思い出した「今」気づきました。

 

こうやって、人は経験を重ねる中で自分らしさも共に育っていくんだ、と今更ながら実感して、

そんな私も悪くない…と、新たに自分を見直しました (^^)

 


私にとっての「メンター」

久しぶりに浜松へ行って懐かしかった…と言って思い出すのは、新入社員の頃、机が向かい合わせだったMさんのこと。

その方は、当時40代半ばの男性の方でした。

同じ山梨県出身なうえ、出身大学も同じだったこともあり、私を子分のようにかわいがってくれました。

まだワープロが主流の時代に、パソコンのエクセル機能をMさんに教えてもらいながら身につけたことで、私はその後の仕事でパソコンに自信が持てました。

仕事だけでなく、仕事帰りに一人暮らしの私をお寿司屋さんへ連れて行ってくれ、「社会」を学ばせてくれました。

取引先との接待で、スタンドマイクを振り回し、世良公則さんの「あんたのバラード」を熱唱していた姿は今でも忘れられません。

Mさんは典型的「B型」と言われ、周囲は振り回されることも多かったのですが、私にとっては、仕事に対する考え方や姿勢、分からない仕事の対応など、とても頼りになる存在でした。

私がその会社を辞め、結婚し長男を出産した半年後、Mさんが病気で亡くなったことを知らされました。

まだ生まれて半年の長男を伴って浜松での葬儀に向かったのですが、出棺に間に合わず…。

「遅いよ~」と空から言われているような気がしました。

働く上で「メンター」の存在が話題に出ます。

制度として設定している企業もあります。

メンターは指導や助言をする存在なのですが、精神的な支えとなることも大切な役割です。

仕事、会社、そして社会を客観的に捉え

相談すると私の仕事も客観的に評価してくれ

社会で働くことや、仕事に取り組む姿勢の見本となる

私にとって、Mさんはそんな存在でした。

Mさんがこう言っていたな~、なんてことを、25年以上たった今でも思い出し、私は先へ進んでいます。


大学で学んだことの中で、今に繋がっていること

大学の研究室が並ぶ中、共同研究室でグループワークの評価作業をしています。

作業をしていると、近くの部屋から学生が教授の部屋に集まって賑やかに話している声が聞こえてきて、自分の大学生活を思い出しました。

私は大学では社会学科の中にある文化人類学専攻でした。内容を聞かれると、「比較文化です」と簡単に説明していました。

指導教官はブラジルの研究をしている方で、ブラジル在住も長かったのですが、大学のある市の郊外に住まわれていて、年一回ご自宅で食事会を開いて下さいました。

日系ブラジル人の奥様は、フェジョアーダという豆と肉の煮込み料理や、サワークリームを使ったディップを作って、私たち学生をもてなしてくれました。

フェジョアーダをご飯にかけ、カレーライスのようにしていただいたり、サワークリームをドリトスにつけて食べながら、教授を囲み、同じゼミの先輩後輩と夜中までわいわいと語り合いました。

決して優等生ではなかった私にとって、その頃学んだことは遥か記憶のかなたになっています。

でも、その時の賑やかで楽しいラテンの雰囲気は今でも思い出しますし、その後日本にブラジルから多くの方が入国するようになって近所に引っ越してきた時も、とても親近感を持ったのは確かです。

それに、文化人類学で学んだグローバルな視点、文化の多様性を受け入れる素地は、今も私の生き方の基礎になっています。

優劣でなく、「違い」として互いを受け入れ、尊重することの大切さ。

学生と様々な仕事の話をする時も、様々な職業の方のお話を伺う時も、仕事にも人にも優劣がある訳ではなく、ただ違いがあると私は考えています。

そして、その違いを尊重したうえで、素直な気持ちで向き合うことも心がけています。

サークルとアルバイトにかまけていた典型的文系大学生の私でしたが、それでも大学での4年間は今の私に繋がっていると、賑やかな研究室の近くを歩きながら、遥か20数年前を懐かしく思い出しました。


あいまいな記憶も、その人らしさ

大学時代の友人と3人で久しぶりに再会しました。

午前中11時にお店に入り、ランチや飲み物を楽しみながら午後4時まで…(^^;)

それはそれは楽しく、時を忘れ、話に夢中な5時間でした。

その会話の中で、共に1年間を過ごした学生寮の話になりました。

寮は大学の敷地内にあり、上級生と1年生を交えた4人部屋で、食堂やお風呂・トイレは共有の共同生活でした。

再会した2人とはこの寮で出会い、夜中まで語り合う日々を過ごしました。

それぞれに結婚出産、その他様々な人生の節目を経てもなお、今まで繋がってきた大切な友人です。

なかなか3人揃って会うことはできず、今回も7年ぶりぐらい。

ひとしきり近況を話した後、当時寮で一緒に過ごした友人たちの話に至りました。

当時同じ階だった友人の名前を挙げる中で、名前を挙げることができる友人も、その特徴も、3人の中で微妙にズレがあるのです。

結果的には3人の記憶を合わせることで、1人では思い出せない多くの友人のことを思い出すことができました。

それにしても記憶とは何とあやふやでいい加減なものか…。

記憶なんて、自分の意識に引っかかったことを中心に、自分の都合のいいところを、自分のフィルターを通して覚えているわけで…。

仕事で相談を受ける時も、相談者にとって「何が真実」か「何が正論か」だけが大切なわけではありません。

その事実を「その人がどう受け止めているか」、記憶をたどって経験を話してもらいながら理解し、問題点を徐々に紐解いていきます。

人の記憶もいい加減ですが、そのムラがある記憶にこそ「その人らしさ」が表われています。

3人で記憶をたどる楽しい時間は終わり、また近い再会を誓って、笑顔での別れとなりました。


「友達100人できるかな?」

おうかがいしている大学併設の幼稚園は、今日が入園式でした。

幼いながらも制服を着て手を引かれる姿はかわいいですね~。

そんなコメントがでるあたり、私も年を取ったものです(^^;)

その姿を見ながら、集団生活の新たな始まりを思い出していました。

私は、歌にもあるような「友達100人」なんて数の勝負はとてもできるような子供ではありませんでした。

幼稚園も遅刻の常習犯で、祖母に手を引かれ、幼稚園に隣接する公園を通りながらだましだまし連れていかれるのが常でした。

もう私がつく頃は園庭でのお遊戯も佳境に入っており、遅れて登園した私は、部屋から一人で、みんなのお遊戯の様子を見つめていた記憶があります。

その記憶を発端に、集団生活にはどちらかというと窮屈さを感じることも多く…。

自分の意見に引っ張られ、相手に合わせることにはかなりエネルギーを使っているような気がします。

でも、SNSでの友人数が話題になるような人付き合いはできません。

でも、それでもいいかな…と考えられるようになったのは、自分で仕事を始めて、自分のペースで動くようになった頃からです。

どうしても質より量の方が話題に出がちな人との関係ですが、新入生も新社会人も、そして新たな場へ臨まれた方々も、自分のペースで大切に関係を築いていってください。

そして、新たな人との出会いを楽しんでください。

 


卒業式と「はかま」

今日は、キャリアカウンセラーとしてお伺いしている大学の卒業式でした。

通常通り3年生は来談するものの、学内は卒業式一色。

特に女子学生たちのはかま姿がとても華やかでかわいらしく、ついキョロキョロしてしまいます。

このはかま姿も、大学の卒業式ならではですし、女子の気持ちも上がる姿です。

かつては、私も大学の卒業式で貸衣装を借り、はかま姿で臨んだのですが、その後、その写真を見た母ともめたことを思い出しました。

私は、大学4年間県外で寮や下宿暮らしをしていました。

自宅での束縛がとてもとても窮屈で、その反動から、大学生活を謳歌していました。

結果、高校までの母親のイメージとはかけ離れた娘になっていたわけで…。

大学進学時の「赤い矢絣(やがすり)に紺色のはかま姿」といった大正ロマン的な母親イメージからはるかにかけ離れたはかまを借り、卒業式に臨んでいたのです。

一緒にレンタルに行った友人たちに似合うと言われて私が選んだのは、山吹色の着物に深緑のはかま。

その写真を見せびらかした私は、

「芸能人じゃあるまいし!!」

と母の立腹を誘ったのでした。

うれしくて見せたのに怒られてしまい、今思い出しても、とても切ない思い出です。

親の目線と子供の成長は一致しないことが身に染みた瞬間でした。

それでも私は、卒業したみなさんが、いい意味で親の期待を裏切って成長していかれることを願っています。


志望動機、そして私が働くうえで大切なこと

来談する大学生にとって作成が難しいと言えば、「志望動機」

実際に働いた経験がないので、仕事理解も企業理解も得た情報をもとに想像していくことになります。

そしてその想像を想像で終わらせないために、更に、企業情報を確認したり、他社と比較したり、社員の方の話を聞いたりして、裏付ける企業研究を深めていくのです。

この繰り返しをどれだけ熱意をもって時間をかけたかが、志望動機の厚みに繋がります。

と、そんな説明を学生さんにしつつ、私が新卒で入社した企業への志望動機を思い出していました。

「学校という一斉指導の場以外の、個別に学べる場で教育に携わりたい」

その動機を持つに至ったのは、大学でのアルバイト経験でした。

私は当時、FAXと電話を使って、中学生に30分間の学習指導をするアルバイトをしていました。

教材販売のアフターケアのサービスでした。

その中で、ある日、中学2年生の女の子から、「勉強できないから塾でがんばろうと思ったら、塾も試験があって入れなかった」という言葉を聞きました。

塾へ行ったことのなかった私は、勉強したいと言う意欲があるのに、一定の学力がないとその意欲を受け入れてもらえない、という事実にショックを受けました。

そこで私は、学校以外で一人一人に向けた教育に関わる企業を探し、音楽教室や通信教育、個人指導塾の企業に応募していきました。

結局、その時の思いは今も続いていて、教育関係の仕事を志向する気持ちは相変わらず強いですし、屋号「Each One」も、一人一人と向き合う気持ちを仕事でも大切にしようという思いから名付けていました。

自分にとっての仕事への思い(最近よく使う「就活の軸」のような部分)は、私の場合は結局揺らがなかったなぁ…と感じています。